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静岡地方裁判所 昭和39年(わ)28号 判決

被告人 香川香三郎

明四四・七・七生 元医師

主文

被告人を禁錮一年十月に処する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

一、(罪となるべき事実)

被告人は、昭和十三年三月名古屋医科大学を卒業し、陸軍軍医、能代市の医療共同組合病院院長、静岡厚生病院副院長兼外科部長等を経た後、昭和二十四年一月静岡市三番町六十九番地の六に香川外科医院を開設し、爾来、医師として診療の業務に従事していたものであるが、

昭和三十八年七月九日、同医院に入院し治療中の進行性筋萎縮症の疑ある歩行不能の患者橘田富士子(当時二十六年)に対し、動・静脈用尿路・血管等X線造影剤ウログラフインを、関節ロイマチスで歩行困難な患者大橋りつ(当時四十七年)に対し静脈用胆嚢・胆管X線造影剤ビリグラフインを、いずれも治療用として施用するため、また、頭蓋骨皸裂骨折の患者丹羽守近(当時四十六年)、頭蓋骨、胸骨皸裂骨傷の患者山本和生(当時十九年)、心臓性喘息兼肺化膿症兼腎石の患者本田徳次郎(当時六十七年)、頭蓋骨頸椎皸裂骨折の患者築地佐吉(当時六十年)に対し、前記ビリグラフインを、いずれも脊髄造影用として施用するため、それぞれ同人等の脊髄硬膜外腔(以下単に脊髄外腔と称す)に注入しようとしたのであるが、

およそ、医師はその業務が常に人間の生命、身体にかかわり合い、人間の生死や運命を支配するものであるから、病理学的にも、臨床学的にも、わずかな誤診、誤療をも防止すべき高度の注意義務が要請される。したがつて医師は、患者の診療については、それが必要であり、適当であることを、現在の医学が病理的にも、臨床的にも、一般に認めて誤りのないとする処置をとるべきであり、もしも、いまだ一般に認められていない処置をとり、また、これまで自ら臨床経験をしたこともない新規な処置をとるには、あらゆる医学的調査研究乃至臨床試験を行つた結果、それが診療に必要で、適当な処置であり、しかも生命、身体に危険な事態をひき起さないことを確認しなければならないのであつて、そうすることがなく、安全度に確信のないのに、ひよつとしたらという成功の奇蹟を信じ、あるいは、万に一つの可能な危険を恐れないで、敢えて異例の診療上の処置をとることは、これを厳に回避しなければならない注意義務があるところ、

これを本件について見ると、前記ウログラフインは、西ドイツのシエーリング社が、尿路、血管等造影剤として製造した水溶性ヨード化合薬品で、その用法は同社の使用説明書にもあるように、動・静脈用として血管に注入するものであり、しかして、これを施用するには、耐容性に対する前試験を行い不耐性徴候が現われるかどうかを観察すべく、また全身状態の非常に不良な患者には禁忌であり、次に前記ビリグラフインは、ウログラフイン同様、シエーリング社が製造した水溶性ヨード化合薬品である胆嚢胆管造影剤で、その用法は同社の使用説明書にもあるように、静脈用として血管に注入するものであり、しかして、これを施用するには、アレルギー性患者には、特に注意して耐容性に対する前試験を行い不耐性徴候が現われるかどうかを観察すべきであるところ、前述の通り、前記ウログラフインを橘田富士子の病症の治療用として同人の脊髄外腔に注入し、また、前記ビリグラフインを大橋りつの病症の治療用として、更に、丹羽守近、山本和生、本田徳次郎及び築地佐吉の病症の診断用として、それぞれ同人等の脊髄外腔に注入することは、これらの薬品の本来の用法に反するのみならず、現在の医学が、病理的にも、臨床的にも、いまだ、一般に、それが必要であり、適当であることを認めていない異例の処置であり、しかも被告人は、これまで、患者に対し斯る処置をした臨床経験がないのであるから、右薬品を橘田富士子等六名の患者の脊髄外腔に注入するについては、特に右薬品の性能(毒性・副作用等)とその用法とを精しく検証し、同人等の病症の治療または診断のためにこれが必要であるかどうか、右場合に人体に危険な反応を起すことはないかどうかをあらゆる角度から詮索しまず極少量から始めて副作用に留意する等、これに安全を期しつつ慎重に行うべきは勿論、殊に被告人のなす腰椎穿刺法は、右薬品を脊髄外腔に注入するにあたり、腰椎に穿刺後、脊髄液が注射針から漏出するのを見て、注射針を徐々に引戻し脊髄液の漏出がなくなつたから、注射針の先が脊髄外腔に位置するとして、右薬品を脊髄外腔に注入するのであるが、この方法によると、硬膜を注射針により損傷して穿刺孔を生ずるから、これが治癒しない限り、脊髄外腔に注入した右薬品が穿刺孔を介して脊髄くも膜下腔(以下単に脊髄内腔と称す)に漏入し、あるいは、注射針の先の位置の如何により強圧下に注入した右薬品が、注射針からそのまま脊髄内腔に侵入する虞れがあり、そうした場合には、刺戟性の強いヨード化合物である右薬品が、神経中枢に関連する脊髄内腔に漏入あるいは侵入してその副障害としての無菌性髄膜刺戟反応を起し、生命、身体に危険な事態を生ずることは当然予見されなければならないから、被告人としては斯る危険の発生を回避するため、前記腰椎穿刺法による注入を中止して他の安全な処置をとるか、仮に右穿刺法によるにしても、硬膜の損傷が治癒して穿刺孔から右薬品が脊髄内腔に漏入し、あるいは、これに侵入しないようにして注入する等、あらゆる危険な事態の発生を未然に防止すべき診療上の注意義務があるにかかわらず、不注意にもこれを怠り、前記ウログラフインが橘田富士子の病症の治療のために、また前記ビリグラフインが大橋りつの病症の治療のために、いずれも効果があり、更に右ビリグラフインが丹羽守近、山本和生、本田徳次郎築地佐吉等の病症の診断のために必要であると考え、しかも、これらの薬品を同人等の脊髄外腔に前記腰椎穿刺法により注入しても、なんら生命、身体に重大な危険を発生しないものと軽信して、

(一)  昭和三十八年七月九日午後二時三十分頃、前記香川外科医院において、橘田富士子に対し、注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液を約二〇cc流出させた後、右注射針を若干引戻したのみで、直ちに前記ウログラフイン約一〇ccを注入して脊髄内腔に侵入させ、よつて同人に対し無菌性髄膜反応を起さしめて、同日午後三時過頃、同医院において死亡するに至らしめ、

(二)  右注射に引き続き、同医院において、大橋りつに対し、前同様注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液を少量流出させた後、右注射針を若干引戻したのみで、直ちに前記ビリグラフイン約四ccを注入して脊髄内腔に侵入させ、よつて同人に対し同様無菌性髄膜反応を起さしめ、同月十一日午後六時十分頃、静岡市小鹿一番地静岡済生会病院において、無菌性髄膜反応に基く燕下性肺炎による急性心臓不全により死亡するに至らしめ、

(三)  右注射に引き続き、前記香川外科医院において、丹羽守近に対し、前同様注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液約五ccを流出させた後、右注射針を若干引戻して、直ちに前記ビリグラフイン約二ccを脊髄外腔に注入して脊髄内腔に漏入させ、よつて同人に対し同様無菌性髄膜反応を起さしめて加療約四十二日間を要する傷害を与え、

(四)  右注射に引き続き、同医院において、山本和生に対し、前同様注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液約五ccを流出させた後、右注射針を若干引戻したのみで、直ちに前記ビリグラフイン約二ccを注入して脊髄内腔に侵入させ、よつて同人に対し同様無菌性髄膜反応を起さしめて加療約四十二日間を要する傷害を与え、

(五)  右注射に引き続き、同医院において、本田徳次郎に対し、前同様注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液を少量流出させた後、右注射針を若干引戻したのみで、直ちに前記ビリグラフイン約二ccを注入して脊髄内腔に侵入させ、よつて同人に対し同様無菌性髄膜反応を起さしめて、同月十日午前一時過頃、同医院において死亡するに至らしめ、

(五)  右注射に引き続き、同医院において、築地佐吉に対し、前同様注射針をその脊髄内腔に刺入し脊髄液約五ccを流出させた後、右注射針を若干引戻したのみで、直ちに前記ビリグラフイン約二ccを注入して脊髄内腔に侵入させ、よつて同人に対し同様無菌性髄膜反応を起さしめて加療約四十四日間を要する傷害を与え

たものである。

二、(証拠の標目)(略)

三、(情状と量刑)

医師は科学者であつても神ではないから、診断と治療とに誤診と失敗とはある。しかし誤診と失敗の中にも、許される誤診や失敗と許すことのできない誤診や失敗がある。また病理学的には誤診であつても、臨床学的には正しい診断がある。治療を行う必要はなかつたかも知れないが、治療をしないとそのため手遅れになつて患者の生命を失うというような事態が起り得るとすれば、治療をすることは臨床的には正しいかも知れないが、病理学的には正しくなければそれは誤診である。しかし、このような誤診は、現在の医学の通念から許されなければならないから、法律上の評価からも過失があるとは言えない。また、医師は人命を尊重すべき反面において、逆に人命を救うために、ある程度の危険のあることを知りつつ、危険を冒しても思い切つた処置をとらなければならない症例がある。このような場合には、たまたま処置に失敗があつても法律上責めらるべき過失とは言えない。本件は以上のいずれの場合にも該当しない。

次に、許されない誤診と失敗は、医師の軽率と無知とによつて起された誤診や失敗である。医師の診療上の注意義務は、普通医師としてなすべき注意が基準となる。具体的には、それぞれの専門医のなすべき注意が基準となるが、この場合、医師の個人的な知識や技能の差異は考慮すべきでない。即ち医師として具えるべき学問的、技術的能力には、一般水準があるのであつて、研究や経験の相異によつて過失の認定を左右することはできない。医学は日日に進歩するが、医学の進歩によつて一般水準は高まつていくところ、個々の医師が一般水準に追いつけなかつたとしても、それは許すことはできないのであつて、高まつた一般水準を基準として過失の有無を認定しなければならない。貴い人命を預る医師としては、常に一般水準に追いついていく義務がある。若し現在の医学の一般水準に照して、具えるべき必要な知識と技能を欠くため起した誤診や失敗であれば、それは許すことのできない誤診と失敗であつて、法律上過失があると言わなければならない。

さて現在の進歩した医学の一般水準から見ると、血管用の造影剤である本件ウログラフインを、治療のために、体力の著しく不良な橘田富士子の脊髄外腔に約一〇cc注入することは誤診であり、しかもその内腔に注入液を侵入させたことは失敗である。同様に本件ビリグラフインを治療または診断のために、前述のように大橋りつ等五名の脊髄外腔に注入することは誤診であり、しかもその内腔に注入液を侵入させたことは失敗である。したがつて、これらの薬品を注入した目的、動機の如何にかかわらず、かかる誤診と失敗は許すことができないのであつて、被告人はこれにつき過失の責任を問われなければならない。殊に被告人はこれまでこれらの薬品を治療または診断のため患者の脊髄外腔に注入した臨床経験はなかつた。更にこれらの薬品が脊髄内腔に侵入した場合に起る危険な副作用について、何等の留意をせず、またその知識もなく研究もしなかつた。更に毒性の強いこれらの薬品を注入するにあたつて、人体組織に対する耐容性についての観察も、過敏性テストも行つていない。被告人は当時たまたま使用しようとした油性造影剤モルヨドールがなかつたため、手持の本件ウログラフインとビリグラフインとが水溶性の造影剤であるところから、モルヨドールより体外に早く排泄して硬膜障害等の副作用が少ないという、一面の利点のみを考えて、これらの薬品を脊髄外腔に注入することにより人体に危険な事態の起る可能性のあることに何等の思いをおよぼさなかつたのであり、これは医師としては、著しい軽率であり、無知である。本件事故は明らかに被告人の重大な過失によるものである。

そうではあるが、被告人は、医師として生来、研究心に富み、常に新しい診療方法に意欲的であつたことが認められ、本件事故も、被告人のこのような研究心が因となり果となつてひき起したものと思われる。更に被告人が本件薬品を使用したのは、たまたま手許にモルヨドールがなく、市内の薬局にもこれが品切れであつたという偶然な外部的条件が、不運な方向にわざわいした不慮の事故であることも認められる。更に被告人は、医師として二十余年の長い期間に亘り、人生の大半を医業の道に捧げて社会のため貢献して来たことは認めなければならない。更に被告人は、本件により医師の資格を剥奪されてこれまで努力を重ねてきずいてきた地位を失い、また本件以来その家族と共に厳しい悔悟の生活を続けてきていることについては、その犯した罪は罪として、被告人に対し憫諒をしなければならないし、被告人が被害者に対し、十分とは言えないにしても誠意を尽して、ある程度の被害弁償をしていることを十分考えなければならない。そうすると、このような被告人の情状から見て、検事の禁錮三年の求刑は本件については重きに過ぎる。

しかしながら、本件の結果は、既に述べたように、三人を死亡させ、三人に重傷を負わせたものであるから、その責任は重大であつて、前記情状にもかかわらず、弁護人の主張するように刑の執行を猶予する寛大な処分をすることは相当でない。殊に本件のように貴い人命を預る医師が、重大な過失を犯して、とりかえしのできない結果をひき起し、社会に対して大きな影響をおよぼし社会の耳目をしよう動させたことに鑑みると、実刑を科すべきであり、そうすることが、医師の職責が重大であり、人命を尊重しなければならないことを、医師全体に対し、更に社会一般に対し警告することになるのであり、また、再びかかる悲惨な事態を伴う犯罪の発生を防止する刑罰のもつ一般予防の機能にも役立つことになるのである。

そこで、当裁判所は、本件犯罪の性状、被告人の情状その他諸般事情をあれこれ考合して後記のように刑の量定をする。

四、(法律の適用)

被告人の判示所為は各刑法第二百十一条前段罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するので所定刑中禁錮刑を選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であるから同法第四十七条本文第十条により、犯情の最も重いと認める判示(一)の橘田富士子に対する業務上過失致死罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において被告人を禁錮一年十月に処し、なお訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第百八十一条第一項を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 相原宏)

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